背中にぼんぼりがあった。
大きなほくろともイボとも言えるが、直径一センチはある深い焦げ茶色のそれは、肩甲骨の間、ちょうど真ん中あたりに、まるで斜面を転がり落ちる丸い玉のように張り付いていた。ぼんぼりのように丸く、少しでも引っ張ったら取れそうなそれは、さいちゃんが小学5年生の頃まであった。
本人はぼんぼりの感覚もなく、背中を見る機会もないため、気にもしていなかったが小学校に入学してからは、同級生のからかいの的となった。(文字通り、的として、クラスの男子たちはプールの時間にイボに向かって小石を投げる遊びをはじめたのだ)水着になる度、身体測定で下着になる度、自分では気づきもしなかったその存在が気になるようになり、一緒に風呂に入るときに母親の背中を見てみたが、そんなものはない。背中に腕を回し、触ってみると、ぼんぼりのような丸いものが確かに付いているが、風呂場の鏡は曇っていてよくみえなかった。それで、母親に聞いてみることにした。
「お母さん、これなんやろ」
「あら、もうそんなにおおきなったんね」
湯船の中で膝を曲げて二人で浸かりながら、母親は湯の中でさいちゃんのイボに右手の平を優しく当てて言った。
「これ、おっきなっとんの?」
「そりゃそうよ、生まれたときはまだゴマ粒ほど小さい点やったもの」
「あんな、これ、みんなにはないねん。さいちゃんの背中にあるの見て、みんなが笑うんよ。つねったり、ひっぱったり、男子が石投げて的にしたりするんよ」
「それはあかんね。さいちゃん、痛かった?」
「ううん、コレ、つねっても痛くないし、それに絶対とれへんねん。でも、背中に石がぶつかるんは痛いわ」
「かあいそにな。今度石ぶつかった時はすぐにそばにいる大人に言うんやで。帰ったらお母さんにも言うんやで。薬塗ったるからね」
さいちゃんは胸の奥の方がこそばいような気持ちになって、湯の中に頭までざぶんと潜った。ぶくぶくと泡ぶくを全部吐き出して顔を出すと、母親は両手の親指でさいちゃんの濡れたまぶたをぬぐった。
「さいちゃん。それはな、これからもっともっと大きくなるかもしれへん。でもさいちゃんが痛くも痒くもなく邪魔にもならへんのやったら、気にせえへんのがええわ」
「気にせえへん?」
「そうや。イボのこと言うてくる子らは、イボが気になるねんな。自分にはあらへんから、どんなもんなんか、興味があるんやろ。そやけどさいちゃんには見えもせえへん、触ってみるとなんとなくあるなぁくらいのもんやったら、気にせえへんのが一番や」
「そうか……」
それからは同級生に背中に鼻くそついてるとか、うんこやとか言われても、さいちゃんは気にしないことにした。実際には気にはなったが、何も言い返さないことにした。そうするうちに小学校三年生、四年生になったが、しぶとくも同級生はまだ鼻くそうんこ言うが、さいちゃんはその頃にはもう本当に何も気にならなくなっていたし、石を投げられたらすぐに保健室に行って、背中に軟膏を塗ってもらうようになり、それからはプールの時間に石を投げる遊びは禁止になった。
小学校五年生の四月。クラス替えではじめて同じクラスになったシオンちゃんと仲良くなった。理科の時間に班が一緒になり、押し花を作るために一緒に校庭の隅にある花壇でパンジーの花をつんだ。(教室に戻ってから先生に、花壇に植えてあるものはだめだと言われたけど、一緒につんできた小さい紫の花は何も言われなかった。)
机をくっつけて一緒に押し花を作っている時に、シオンちゃんがパンジーの花びらをバラバラにして、目、目、鼻、耳、耳にしてくまの絵の押し花を紙の隅っこに作ったのを見て、さいちゃんは面白いと思った。その日から下校の時シオンちゃんと一緒に帰るようになり、道草して貝殻公園でブランコに乗ったり、靴投げしたり、縄跳びをして遊んだりした。
シオンちゃんの縄跳びは、本物の縄だった。さいちゃんの縄跳びは、縄の部分が蛍光ピンク色の細いチューブでできていて、持ち手の部分は透明で、中に名前が書いてある紙が入っている。クラスの女子のほとんどがそういう縄跳びを使っていたから、さいちゃんはそれまで、そういうカラフルなチューブのことを縄というのだと思っていたけれど、シオンちゃんの使っている縄跳びの縄が本物の縄だと知ったし、それの太いやつが綱だと知った。
さいちゃんは学校の帰りにシオンちゃんの家で宿題を一緒にしたり、おはじきとか絵を描いて遊ぶこともあった。
シオンちゃんの家の庭には大きい犬がいる。名前はアンドリュー。薄い茶色のふわふわした毛の犬で、鼻は黒く光っていて、耳は垂れていた。アンドリューはいつも庭にある青い屋根の犬小屋の横に綱で繋がれていた。シオンちゃんの父親が「綱を外したらあかんで」とか「綱に繋ぐん忘れるんやないで」とか言うから、その犬を繋いでいるものが綱だとわかった。よく見たらシオンちゃんの縄跳びと同じ素材だということもわかった。
その綱は外せるのも、繋げるのも、持てるのも、シオンちゃんのお父さんだけだった。さいちゃんの家には犬がいないから、綱を持って散歩してみたかったけど、それはシオンちゃんにも許されていなかった。散歩は毎日、朝と夕方に、シオンちゃんの父親が行っているという。たまにシオンちゃんもついていくことはあるが、持たせてもらえるのは綱ではなく、うんこを入れる袋とスコップだけだった。
「この子はおとなしい犬だけど、力が強い。身体はシオンよりも重たい。自分より重たいものに引っ張られたらどうなるかわかる?」とシオンちゃんの父親に聞かれたさいちゃんは「転ぶと思う」と言った。
シオンちゃんの家で遊ぶとき、いつもシオンちゃんの母親がおやつにクッキーを出してくれた。それは店に売っているクッキーと違って、あんまり甘くないが病みつきになる味だった。いつも冷蔵庫に入れてある長方形のタッパーから取り出してくれるから、口の中がひんやりとする。しばらくべろの上に乗せて冷たさを感じ取ってから食べるのがくせになっている。さいちゃんがあまりに美味しい美味しいと食べるから、シオンちゃんの母親はいつもティッシュに数枚クッキーをくるんで帰りに持たせてくれた。さいちゃんはそのうち一枚は必ず、アンドリューのためにポケットに忍ばせ、かえりにこっそり庭に放り投げるのだった。
小学五年生の夏休みのことだった。その日は学校のプール開放の日で、さいちゃんは透明のビニールバッグにタオルを入れて、ワンピースの下に水着を着て出かけた。その日は少し回り道をして、川の土手を歩いて学校に行こうと思っていた。コンクリートで舗装した道は太陽が染み付いていて、ビーチサンダルの足の裏まで燃えてしまいそうだったから。土手の草を踏んで歩こうと思い、角を曲がった時だった。覚えているのは、犬が飛びかかってきたことと、さいちゃんのポケットの中に鼻を突っ込んだこと、逃げようとした背中に感じたあたたくてふわふわとした重さと、背中のぼんぼりに触れる、柔らか肉が吸い付くようなな心地良い感触と、引きづられた綱と、地面の、赤くて、ぬるぬる、ベタベタ……
犬はさいちゃんのワンピースの広く開いた襟ぐりからころんとむき出しになっていたイボに噛みつき、喰いちぎってしまった。さいちゃんはすぐに救急車で運ばれて、傷口を縫う処置を受けたことはあまり覚えていないが、念の為とかなんとかでその日入院し、夕方入院食で出たプリンが美味しかったことはよく覚えている。
母親が替えの下着を持って病室に来た時には、水着の上に服を着て出かけたのに、パンツを持っていくのを忘れていたからだと思って、気が利くと思っていた。
こうしてさいちゃんのイボはきれいに消え去り、代わりに二センチほどの傷跡が背中にくっついた。
退院したその日の夕方、シオンちゃんの両親が菓子折りを持ってさいちゃんと母親が住んでいるアパートに来て、お嫁に行く前の娘さんの身体に傷を残してしまい、本当に申し訳ない、と詫び、さいちゃんの母親は、本人はけろっとしてますし、元気にしてますから、もう顔を上げてください、と言ったのだけれど、二人ともずっと膝を床にくっつけて俯いたままだった。さいちゃんはなんとなく出ていくのをやめて、リビングのドアの隙間から隠れてその様子を見つめるだけだった。
後で母親から、あの日アンドリューはシオンちゃんとシオンちゃんの父親と一緒に行った散歩の最中、糞の始末をするために父親がかがんだその隙に脱走し、ほうぼう走り回りばったりとさいちゃんに出くわし、夜になって家に戻って来たこと、翌日の夕方、シオンちゃんの父親がアンドリューを車の後部座席に乗せ、綱を引いてどこかに連れて行ったことを聞いた。
<了>