甘い水
「彌勒様 わたし来世も螢ですか」 俳人、山蔭石楠の句より引用
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その日は雨だった。
黄色い布地に水色の花模様が入った北欧風のテキスタイルが気に入っていた傘をタクシーの中に忘れてきてしまったことにエレベーターの中で気がついたが、あなたには言わなかった。エレベーターは高速で34階へと上っていく。
3435室に入りカーテンを開くと、見下ろすロープウェイの光が行き交う様子がまるで蛍のようだった。
あなたはコンビニで買ってきた日本酒をビニール袋から出してテーブルの上に置き、手慣れた様子で引き出しからグラスを二つ取り出した。私はベッドのふちに腰掛け、あなたは椅子を引いて座り、グラスに注いだ日本酒で私たちは乾杯をした。
あなたはおもむろに日本酒を口に含み、私の口の中へ液体を流し込み、そのまま互いの舌を絡め合いながら、あなたが私に覆い被さるようにして、ふたりはベッドに倒れ込んだ。あなたの熱を持った身体に圧され、私は白いベッドカバーに埋め込まれるような姿勢になる。両手を伸ばしてあなたの背中に触れると汗で濡れていた。あなたの唇は私の首筋に触れ、舌を這わせるようにして左の乳房の輪郭をなぞる。右手は右の乳房を優しく撫で、その柔らかさを感じているようだった。
「噛んで」
私の両手はあなたの頭を包み込むようにして、汗ばんで濡れた頭皮と髪を撫でている。
私の言葉に喚起され、あなたは強く私の左の乳首を噛んだ。
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あなたと会うようになり、一年ほどになる。初めの頃は定期的に連絡があり、検索して調べてくれた評判のいい店を予約して食事をしてからタクシーを呼び、ホテルに泊まる。朝、またタクシーを呼んで私を乗せ、別れのハグをして、10日ほどするとまた連絡が来る。その頻度は半月ごと、ひと月ごとになっていった。
あの日は正午過ぎに急にあなたから「今から会えないか」と連絡があり、慌ただしく準備を整えてあなたの借りているオフィスに向かった。昼間に連絡してくることは珍しいことだった。
「今日は仕事が終わらなくって、2時間しか時間がないんだけど、2階でちょっと休まない?」
手早くセックスをして、じゃあねと別れる。
私から連絡することは一度もなかった。初めからそういう関係を私たちは築いていた。
連絡が来なくなり3ヶ月が過ぎた。
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期待したくない
もうしたくない
待ちたくない
痛いところは見えない
誰にも見えない
もうこの”気持ちいい”は誰にも見えないところにしまっておきたい
惨たらしい感情をもう隠すことはできない
見限られる前に
私が
見限る。
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夕方歯科医院で打った麻酔が夜になってもまだ効いていて、お腹が空いてパスタをたべた時に唇を噛んでしまった。痛みはなかったが血の味がした。痺れた唇でたべたリングイネは味はするが美味しくなかった。
その夜、初めて私からあなたに連絡をした。
ノーペインベイビー
気がついたときには地面にうつ伏せになっていて、コンクリートの湿った匂いがした。濡れている、と思い顔を触ろうと思ったら、耳から血が出ていた。鼻からも血が出ているようだ。
体を少しづつ動かして横向きなると、額にコンクリートの砂利が張り付いていた。
どこが痛むのかよくわからない。地面に突っ伏したまま重い目蓋を開いてみたが、視界が霞んでよく見えなかった。
何時だろうか。家に帰らないと。ここはどこだろうか。昨日は事務所に出社して打ち合わせの後……だめだ、思い出せない。でもきっと誰かと一緒にいたはずだ。
加奈子と一緒にいたのだろうか、麻利江は今はもう広島にいるのだから、たぶん加奈子と一緒だったはずだ。妻に連絡しなければ。
アキオは寝転がったままポケットを探るとスマートフォンを取り出し、妻に電話を掛けた。目を細めて用心深く着信履歴をスクロールし、妻に電話をかける。
「もしもし? 陽太はどう? え? ああ、ごめん、え? いや、電話するの忘れてたから、うん、うん、はい。すみません。え? 4時? 寝てたよね……そりゃぁ……あのさ、悪いんだけど、仕事が長引いていて……はい、すみません。はい、はい、わかってる。うん、今日中には片付けて……はい……おやすみ……」
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しっかりと見ようとする時、わたしは目を閉じる。あなたの目が瞑られているのなら、わたしは目を開いていてもいい。でも、見られているのなら、わたしは目を瞑る。その方がしっかりと見ることができるから。
「苦しくない? 痛くない?」
時々あなたはわたしに問う。眉間に皺を寄せ、ぎゅっと、目を瞑っているその表情をあなたは見ている。
「痛くない、気持ちいい」
あなたは安心している。あなたは安らいでいる。
横で眠っているあなたの顔を見ているのが好き。あなたの閉じられた瞼を、濃い眉毛と、丸くカーブした睫毛を見ているのが好き。
わたしはいつだって、あなたが気が付かないようにしている。そっと、ささやかな存在でありたい。そうすれば、痛くも痒くもないだろうから。
笑ってしまうくらい分かりやすい痕跡。
いつだって、わたしは正しくやきもちを妬いてあげる。笑顔を絶やさないまま、本気で怒っているんじゃないよ、というアピールを見せながら、正しく、一つ一つ痕跡を見つける。
「なんで今日はいつもと違う匂いがするの?」
「そう? その辺で適当に買った柔軟剤だよ」
「きつい香り苦手なのに? ボディソープもシャンプーも無香料のキュレアなのに?」
「ははは。探偵みたいだな」
「出張中はいつもボディーソープでシャワールームで洗濯するっていってなかったっけ?」
「溜まっちゃったから。ランドリー行ったよ」
正しくやきもちを妬くわたしを見て、あなたは安心している。あなたはいつも、わざと痕跡を残しては、わたしをからかって、楽しんでいる。
今、目が開いているから、本当のことは何も見えていない。
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あなたは同時に何人もの人を好きになる。ポリアモリーだとか、オープンリレーションシップだとかではない。関係性に縛られることや、タブーがあること自体に違和感を持っていることを、あなたは始め、わたしに告げた。大阪に妻と子どもがいることもはじめから聞いていた。
ある時、相手のプライバシーがあるから、いつ、どこで、どのくらいの頻度で会っているかを詳細に話すことはできない、とあなたは言った。わたしは、「詮索することがとても醜い行いだ」と、あなたが本心ではそう言っているように感じ取った。それと同時にあなたは、わたしを嫌いになることは一生ないと思う、と言った。好きです、と言った。
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人の感情をコントロールしようとしないこと。人を所有しよう、されようとしないこと。そうありたいのに、どうしても意識を飛ばしてしまう。あなたは初め、わたしに告げていた。
「加奈子さんを入れて3人です。加奈子の知らない人たちで、一人は広島、妻と息子は大阪に住んでいる」
でも、その時あなたは隠していた。もう一人いることをわたしに隠していた。わたしがそもそも知らない、見たこともない、見えることのない存在であれば、わたしにとってどうだっていい問題であるということに、あなたは気がついていた。その人のことを、わたしが詮索するまで隠していたあなたは、プライバシーがあるから、と黙ってしまった。
わたしもよく知っている友人であるその人との関係を詮索しようとしても答えないあなたに、わたしは意地悪にも、
「じゃあ、本人に聞いてみる。本人が本人のことを話すのは自由でしょう」
と言ったから、あなたは全てをわたしに話した。
いつから始まったのだろう。こんなやりとりが。あなたとわたしにはタブーがある。その人について詮索しないこと。
わたしはあなたの残す痕跡を、正しく誤訳し、あなたを安心させる。
目をつぶってあげるの。
<了>