私の母はよく編み物をした。

母はよく編み物をした。
セーター、マフラー、カーディガン、冬物のみならず、夏物、サマーニットと呼ばれるものまで、いつも何かを編んでいたんだけど、リウマチで肘も手首も曲がっていて、いつも痛い痛いとのたうち回っているのに、なんで編み物なんかするんやろか、苦行なんやろかと私は疑問に思っていた。
何かを作り続けることで無心になれることは知っているけれど、健常な腕の私にはわからない、痛みが伴う喜びなんてあるのだろうか。

それはもう、思えば二十年くらい前のことで、六十を過ぎた母は編み物をしなくなったんだけど、それは身かないよな、アホな提案をしてしまった。

毛糸の衣類ってわりと管理が難しいというか、毛玉はできるし間違った洗い方をすれば縮むし、貰った最初の年は喜んで着るんだけど、まあ飽きるという事もあってだんだん着なくなって、ごついセーターだとタンスの引き出しの半分を占めているそれらは、出来ればもう手放したいのだけれど、母の手編みの威力。手放す忍びなさがこんな親不孝者の娘にもあって、引っ越しの度にそれらの編み物も共に旅をし続けていた。
防虫剤は気付いた時にはいつも空気でぱんぱんに膨らんだ空っぽの包み紙になっているし、役目を果たし終えたそのゴミを捨てる時なんかはとくに編み物を手放したくなる。
そこである時、段ボールにぎゅうぎゅうに編み物を詰めて実家に送り、帰省した時にクローゼットの奥にしまい込んだ。一年に一度は帰っていたけれど防虫剤の入れ替えはもうしてへんし、たぶん虫に食われ続けているだろうから、いつか防虫剤の袋の中身みたいに自然消滅するのだろう。希望。
でも例えば、砂浜に絵を描くのはどうだろう。拾ってきた木の棒で波に濡れた黒い地面に描いた図が、波がさらって消えてゆく時、喜びはなかっただろうか。
編み物を編むということにそういう喜びがなかったのかと考えた時、不意に、私は母の子であるということを思い出した。

母は、私に着せるために編んだのだ。
そう思いたくなかった。
痛い手を動かし続けてまでこさえられた服がクローゼットの奥にあることに気づきたくなんかなかった。
もう一つ気がついたのは、それは母よりも”もつ”のだということだ。
まず防虫剤の中身が消えてなくなって、その次に母が消えてなくなって、どんなに虫が食おうとも、それはやっぱり何よりも長くもつのだということだ。

う、とこみ上げてくる感情に伴う涙というものは、ひとり自室で流す分には自分以外の何にも関係がなく、他者や環境に影響を及ぼすこともなく、ただひとり胸の奥の苦しさに耐えているだけのことで、それはひとりでYouTubeを見て笑い声をあげることと同じだし、感情を発している、発しているだけと思い込もうとすればするほど、いつの間にか体調を悪くした。

移動する時、しなければならない時、人はその場所をどうやって決めているのだろうか。転勤、入学、結婚であれば、自分の意志と関係なくその場が開けるのだろうが、そのどれもをわたしは経験したことなく、いつもまず思いつきで場所を決めて、移動してから仕事を探す。思いつきというのは、雑な言い方だ。思いつきが本当に思いつきであるほど私はクレイジーでもなく、2つ3つの理由はある。とにかくそういう引越しをして、数ヶ月経っても仕事が見つからないことはざらにある。
引越して間もない頃は部屋を片付けたり区役所に行ったりハローワークに行ったりとやることが毎日あったのだけれど、そんなもの一週間もすれば全てやり終えてしまい、あとは仕事が決まるまでとにかく時間を持て余していた。
そんな時、手は動きたいと言う。忙しなく二本の棒きれみたいな腕を動かしつつ編まれた編み物もまた、そうやって作られたものだったのだろうか。