偶然の賜物

 最初にこの子がおかしいと思ったのはこの子が泣かないことだった。生まれた瞬間におぎゃあと泣くこともなく、その翌日も、そのまた翌日も泣かなかった。たくさんの検査をしたけれど悪いところは見つからず、結局一度も産声を聞くことのないまま退院した。

 この子はとてもツルッとした子で、よその子に比べて何かおかしいところがあるように思ったものの、母乳もちゃんと飲むし、静かではあるが元気にしていた。よその子と違うからと言って病気でもないのに治すことはない。まして、どこを治したらいいのかもわからない。病院で調べてもらってもわからないのに、私たちにはどうすることもできない。

 きっと大丈夫だ、大丈夫だと毎日思いながらこの子を育てた。

離乳食を食べ、言葉を話すようになり、本当に順調に育っていったのだけれど、この子はまだ一度も泣いていない。

 この子が二歳の時、おかあさん、しんどい。何一つ表情を変えずにツルッとした顔のままで、この子はしんどい、と言った。やっと、言葉になったのだろう。やっと、表現できたのだろう。私の胸に、やっとしんどいが届いた。ごめんね、ごめんね、私の涙でこの子の顔がベタベタになった。おんなじ様に、泣いてくれたらいいのに。

 翌日からまたあちこちの病院を駆けずり回ったが、何度大阪の大きい病院に行っても、小児科の有名な先生に診てもらっても何も問題はないと言われる。

 私の母が御百度参りをしようと言ったのは病院を駆けずり回るようになってひと月ほどした頃だった。藁をもすがる思いで、母と御百度参りをした。

本殿でお参りをして、入り口に戻って百度石をぐるっと回ってまた本殿に戻ってお参りをしてまた入り口に戻って。ぐるぐる同じところをただ数字をいちにさんしと数えながら回っていると、何を願っていたのか忘れそうになる。だけどすぐにあの子のしんどいを思い出して喉の奥がぐっと痛くなる。私がお百度を踏む日は母がうちのマンションに来てあの子を見て、私が見ている日は母がお百度を踏んだ。その姿を父が見て何か思うところがあったのか、急に兵庫県の田舎の町に家を建てると言い出し、あっという間に事は進み私たちは二世帯で暮らすこととなった。

 そしてその町の小さな診療所で、やっと、この子がなぜ泣かないのかが判明する。

 あなたが胸に抱いている不発弾の信管を抜かなければいつ爆発するかわからない。すぐに手術をしましょう。紹介状を書くから、明日ここで検査を受けてください。

 この子は不発弾なのだそうだ。

起爆に関する機構に何等かの不具合があって爆発せずにいる砲弾のことをそう言う。もし大泣きをして信管に触れていたら途端に爆発していたでしょう、と町のお医者さんが言った。この子はこんなにも小さいのに、自分が不発弾だと分かっていたのだ。

 そうしてこの子が三歳の時、手術を受けた。

それ以来、堰を切ったかの如く癇癪を起こすようになった。泣いて泣いて、顔を真っ赤にして泣き喚く。樋屋奇応丸が欠かせないようになった。樋屋奇応丸の粒は、ツルッとしたこの子の肌によく似ている。

 小さい頃庭でカラカラのダンゴムシ拾ってきて、オルガンの鍵盤に一個ずつ並べてたらお母さんがぎゃあって言った。私カラカラの白なった子は黒い鍵盤に、黒の子は白い鍵盤に乗せて、みんなに名前をつけてたんやけど、お母さんに見つかるといつも庭に戻しなさいって言われた。

 お父さんは鉛筆の角を削ってそこに123456って数字を書いてサイコロ作ってくれた。夏に届くビールの四角い箱で野球盤作ってくれた。テレビにアルミホイル貼って、寝れへん夜に星見せてくれた。

 お兄ちゃんはキン消しをいっぱい持ってて、いつもいろんなキン消しを手に持って戦ってた。シュッシュ、クソー、おのれって、テレビは見たいときに見られへんけどお兄ちゃんはいつでもどこでもいろんなお話をすぐに作れるから、すごかった。

 おじいちゃんはいつも変なものを持って帰ってくる。会社で作ってるんやって言って、あったかくなる板とか、それのドーム型のやつ、丸っこいやつとか。遠赤外線やからこたつみたいに身体に悪くないって言ってた。

 お母さんはいつも痛い痛い言ってた。いつもすごいおっきい声で叫ぶから、私の耳の奥も痛くなる。丸っこいやつにヒジを入れてあったかくしたら「まし」って言ってた。お母さんのヒジは真っ直ぐにならへんくて、いつも曲がってて、固まって伸びひんのに、いつも私に伸ばしてって言った。毎日毎日、伸ばすんが気持ちいから言うてんのやと思ってたけど、もしかしたらいつか伸びるかもと思ってたのかもしれへん。

 おばあちゃんはさいご、私を玄関で見送るときに泣いてた。遠くに行くのはいつものことやのに、なんで泣いてんの、変なのって思ってたら、その後すぐ病気が見つかって死んでしまったから、人はこれがさいごってわかるんやろうなって思った。それか、どこか痛くて泣いてたのかもしれへん。

 小学生の時、買ってもらったばかりの服の袖をハサミでズタズタに切ってしまった事がある。母が近くのダイエーで買ってきてくれた、ピンクのトレーナーだった。その日は母と兄と三人で買い物に行く予定だった。

覚えていないけれど、何かのきっかけで母と大喧嘩をして、結局わたしは一緒に買い物に出かけなかった。

 わたしの実家がある町はごく平凡な地方都市で、田舎くさい町である。

徒歩五分くらいのところに西友ストアーがあり、日々の食料品などはそこで買い物をするが、ちょっとしたものを買う時は、車で十分ほどのところにある、ダイエーかイズミヤに出かけた。

 ダイエーとイズミヤに行くことは小さな楽しみだった。ダイエーは、一階が食料品売り場、二階と三階のフロアーには日用品、衣料品の売り場、四階が家電売り場、おもちゃ売り場、ゲームコーナーなどがあり、屋上にささやかな遊園地があった。イズミヤにはスポーツ用品店、ペットショップ、マクドナルド、ミスタードーナッツなどが入っていた。母がダイエーやイズミヤに行く、と言う日は気持ちがたかぶった。

 小学校高学年になってからは、学校が終わった後にリュックサックを背負って、歩いてダイエーやイズミヤに行くこともあった。車で通る道とは違う、山の小道を抜けて行く。お金は持っていないので、ただのウインドーショッピングだ。二階のフロアで洋服を見たり、化粧品売り場でリップを試したりした。

 幼稚園の頃、ダイエーの屋上遊園地で迷子になったことがある。遊園地と言っても、百円玉を入れたら動く乗り物がいくつかある、という程度の殺風景な屋上で、どうやったら迷子になれるのか見当もつかないが、わたしは迷子になった。大泣きをして探し回り、お母さんだと思って駆け寄った人は知らない女性だった。

 わたしがピンクのトレーナーを切り裂いたのは、多分小学校四年生くらいの頃だったと思う。母と兄がダイエーに買い物に行ってしまい、一人で留守番をしている間に、買ってもらったばかりのトレーナーの両袖をビリビリに切り裂いた。母は帰って来て、それを見て泣いた。うずくまって大きな声でヒステリックに泣いていた。兄は呆然と見ていた。手にはミスタードーナッツの袋を下げていた。ひとしきり泣いた後、母はミシンを取り出し、トレーナーの袖を繕った。長袖のトレーナーは半袖のトレーナーになった。そのあと、みんなでドーナツを食べた。わたしの好きなエンゼルクリーム。

 何にもない町だった。何でもない町だった。西友とダイエーとイズミヤだけで生活の全てが賄われている、そんな町だった。

 数ヶ月ぶりに実家に帰省した。帰省するたび、家の中は模様替えされている。たった数ヶ月の間に、新しい家具が増え、ベランダにはたくさんのお花が飾られていた。

最近ドンキホーテにはまってる、という母が好きな物を買ってくれるというので一緒にドンキホーテに行った。車の中にはドンキホーテの買い物袋が既にある。昨日も行ったそうだ。毎日行っているという。

店に着いて、わたしはファンデーションと口紅を選んだ。母は、店の隅から隅まで見ていた。早くしてよ、というわたしに、もうすぐやから待ってと言って、七十円ほどの菓子パンを真剣な目で選んでかごに入れた。

 わたしは、わたしの知らない家族の日常の断片、例えば、ドンキホーテで買い物をする母の目線や、食器棚に並ぶ見慣れない安っぽいグラス、ベランダの禍々しい色の花、観葉植物、じいちゃんの台所にあったカビだらけのパン、しけった口の開いたポテトチップス、すぐに返って来ない会話の返事、ソファに横になっているじいちゃんの口元、そういう日常の断片から想像することしかできない。

 日常は、過ぎ去っていくばかり、家族は歳をとり、実家にはわたしの知らない物が溢れ、わたしは想像するしかない。きっとこのパンがすきなんだろうな、最近はベランダに居る時間が多いのかな、

 他愛も無いことはなんて大切なんだろう。わたしはきっと後悔する。

 久しぶりにじいちゃんに電話した。元気?と聞くと心配なくらいの間のあとに元気じゃない、と言われた。どうしたのって聞いたら、母の調子が悪くて、毎晩喚いているそうだ。その対応に追われて眠れない日が続いているらしい。遠いところからそういう話を聞くと、いつも汚物入れのことを思い出す。

見たくないものに蓋をしてないことにする。臭いものに蓋をする。ないことにして、でもそれを誰かが処分する。

 じいちゃんと父はそこから逃げることはできないから、何十年も母の面倒を見ている。わたしはとっくの昔に逃げた。わたしは自分が弱くて、じいちゃんと父は強いから耐えることができるんだと思っていたけど、弱いとか強いとか、そういうことではないんだと最近思う。じいちゃんも父も、胸を痛めている。

母がどうしたらよくなるのか、ということに家族は向き合い続けてきたけれど、わたしはそれはもう無理だと諦めた。たぶん、じいちゃんも父もとっくに諦めていると思う。

 それでも少しでも元気な日があればいいなと希望して、休みの日には遠出して美術館に連れて行ったり神社仏閣を巡ったり、普通の、そう、普通の、平凡な定年後の老夫婦みたいな日常を希望して、

 ねえ、汚物入れって、わたし、汚物だって思ってるよ、母のこと。そんな風に思うわたし自身が、クソみたいだ。

 だいぶ前のこと、ママがもう手に負えなくなってしまって病院へ連れて行ったとき、車の中でママはずっとパパを罵った。それは本当にひどい言葉だった。絶対に言ってはいけない言葉を、パパは背中で受け止めた。助手席でお兄ちゃんが泣いていた。わたしも泣いた。ママなんて死んでしまえ。わたしはずっとそう思っていた。

 カリカリ カリカリ

 ママはもう自分は誰からも必要とされることのないただの棒きれのような気持ちでいた。ママは不安な時 パパを罵倒する。パパはちょっと苦笑いをして、でもほとんど真面目な顔でママを慰める。胸が痛くて痛くて もがいていた。パパは毎日懸命に励ます。

 今日は洗い物ができたね、洗濯物ができたね、ママができないと言うと、ゆっくりでいいよと言った。

 それでもママは 罵倒することをやめない。不安がカリカリと 爪を立てて心臓を削り取ってしまう。パパは真面目な顔のままで黙り込む。背中が悲しそうで驚いた。ぜんぶ飲み込んでしまったパパは苦しそうだった。

 そんなとき、ママはベルを鳴らす。まるで幽霊みたいに ふあふあ歩き回りあちこちにぶつかりながら、電気を消して、点けて、ベルを鳴らす。外はもう真っ暗だけど眠れないから歌をうたい、お経を詠んで、薬を飲んで、ベルを鳴らす。布団に入って、出て、ベルを鳴らす。ベランダに出て、タバコを吸って、朝が来たら食器を洗おう、と思う。うまくできたら、できるかわからないけど、食器を洗ってベルを鳴らそうと思う。

 これなんなん?

 ひなちゃんが指差したその先にある、二ミリほどの白い砂粒のようなものはあたちゃんの歯だ。わたしは、何を入れたらいいのかわからないくらい小さながま口に、まだほんの子犬だったあたちゃんの初めて抜けた乳歯を入れていた。

 姪っ子のひなちゃんはそのがま口が気になって開けたようだ。あたちゃんの歯やで、とわたしが言うと、ひなちゃんはふうん、かわいいな、と言ってまたがま口を小さな指で閉じた。

 あたちゃんの歯は、小学生の時にお土産でもらった星砂に似ていると思った。わたしは星砂の入った小瓶を大切にしていた。それが有孔虫の死骸だと聞いて、かわいそうだと思ったからだ。小さな、小さなあたちゃんの歯。あたちゃんの歯を見るといつも涙が出た。あんなにも大切にしていたのに、星砂の小瓶はもう今どこにあるのかわからない。あたちゃんの小さな歯を入れていたがま口は、たぶん実家のどこかにあると思う。でも、ないかもしれない。遠く離れてしまって、もうよくわからない。

 火葬場で係の人が箸でサクサクと灰になったばあちゃんの骨をかき分けて、これが喉仏です、と示したものが小さな骨壺に納められた時も、多分いつかなくなるんだろうと思っていた。小包装された防虫剤の中身がいつの間にかなくなるみたいに、何十年か後に蓋を開けたら、多分もうなくなっているんじゃないかと思ってそれを見ていた。八万粒に砕かれ、各地のストューパに納められた仏舎利だって、ずっとその中にあるのだろうか。

 わたしは多分、星砂も、あたちゃんの歯も、仏舎利も、わたしが吐く息も、お線香の煙も、無数の仏も、見えなくなったものはみんな同じように宇宙空間を漂っているのではないかと思う。同じように見えなくなって、同じようにぷかぷかと漂って、同じようにわからなくなるんじゃないかと思った。

 だから、宇宙ステーションでぷかぷかと浮かぶ宇宙食を、宇宙飛行士が器用に箸でつまんで食べるのをテレビで見た時、それはとても尊い行いのように思えた。

 私は小さい頃胸に穴があいていた。比喩ではない。 先天性の心臓病だった。四歳のときに胸の孔を塞いで、閉じていた弁を開く手術をした。傷跡は大人になった今でも胸に残っている。

 お風呂上がりに、傷跡にてらっとしたテープを母が貼ってくれていた。小学校低学年の頃までだった。傷跡が薄くなるから、と根気よく続けていた。いつの間にかテープを貼る習慣がなくなったけど、わたしはあのテープが好きだった。

 傷跡のことを、わたしはミミズと呼んでいた。これなに、と小さな子どもの遠慮のない、それでいて邪気のない質問にいつもうまく答えられなくて、そう答えるようになった。

今では、ミミズはなんの存在感もなくなったけれど、時折お酒を飲んだときに、真っ赤になって主張してくる。

 昔働いていたバイト先のカレー屋で、ネパールの人に、胸を指差してココ何ですか?って聞かれた時、心ですと答えた。心がどこにあるかと聞かれたら、 間違いなく胸を指す。

どきどきどきどき、心臓がうるさい。かなしいとき、心臓がうるさい。上手にできないとき、心臓がうるさい。間違えたとき、心臓がうるさい。人を傷つけてしまったとき、心臓がうるさい。後悔してる時、心臓がうるさい。大事にできなかったから、心臓がうるさい。自分が悪いから、心臓がうるさい。なんでなんにもできないんだろう。なんでこんなことになったんだろう。なんで自立できないんだろう。なんで依存してしまったんだろう。

好きだと思う時、心臓がうるさい。

 家に帰ると「炭」と記載された箱が届く。健康食品を買ったのだが、宅配のラベルには炭と記載されていた。あなたの実家の炭問屋さんが営む健康食品のオンラインショップで私は野草茶とヒマラヤ岩塩を注文した。一番健康的に思える商品を注意深く選んだはずだ。

 夜中にあなたの実家のオンラインショップのページを開いてしまい、炭だけは絶対に買うなよと猿に命じて買い物をした。猿が選んだのが野草茶とヒマラヤ岩塩。良質のミネラルは精神を安定させると先生が言ったことを私は覚えていた。野草茶はとても美味しかったが、ヒマラヤ岩塩は舐めてびっくり、硫黄の強烈な匂いがした。間違えてバスソルトを注文してしまっていた。失敗したな。うちは湯船がないのに。大失敗だ。なんで注文してしまったのだろう。もう二度と関わらないでとあんなにも言われていたのに。

 あなたの実家の炭を買って練炭自殺すると言ってしまった事、本当に後悔している。耳をつんざく怒鳴り声。慌てて電話を切った。

 先生は仏教には罰を与えるという考え方がないと言っていた。でも、もし罰があるとしたら、こんなにも苦しんでいるのだからもう罰は下っている、とも言った。わたしは実刑がほしい。わたしに下った罰に時効はない。いつまでも許されることはない。また猿が暴れるから、また同じことの繰り返し。わたしは反省していないとあなたは言っていた。

 わたしは猿を飼い慣らすことは出来ないけど、指示を与えることはできる。炭を買わない事で精一杯だった。

 花火なんかなくなってしまえと呪ってみたものの、昼には雨はすっかりあがり、空も泣きはらした瞼もはれて、わたしは一人、離れにいた。結婚したばかりの友人の自宅の離れにとめてもらっている。新婚家庭に上がりこんで、夫婦の寝室を奪って申し訳ない日が続く。

 夕方になると、浴衣を来た人たちが、三津駅から行列をなしてやってきた。道の角、角には警備員が立ち、人々を区切っては横断歩道を渡らせていた。人々はひとつの塊のように移動していた。わたしはその列を横切り、原付バイクにまたがる。松山駅に向かった。駅前の温泉施設に入り、短めの入浴をして、施設内で鯛めし定食を食べた。そのあと駅前の喫茶店に移動してケーキセットも食べた。どれだけ満たしても満たされないけれど、なにもせずにじっと離れにいることはどうしても出来なかった。

 八時の閉店を前に喫茶店をでて、駅に行く。ふと、八幡浜港へ行く電車を見つけてしまった。

これが最善かはわからないけれど、賑わうあの街に今戻ることは躊躇われ、わたしは電車に乗った。

四国の電車は苦手だ。駅ごとに長時間停車することが多く、中々進まない。じれったく、時間だけが経つこの電車に、あの数日間なんど乗ったことだろう。あの日、私は花火を見なかった。

十一

 屋上で一人たばこを吸いながら、風に舞う煙草の灰を見ていた。灰は風に乗ってふわりと浮かび上がり、小さな円を描いて浮遊してから、すぐに地上に落ちていった。愛情が憎しみに転落するのは早い。

 さっきまでここに居たその人の事のどこがそんなにも好きだっったのか、全く分からなくなっていた。今日は会話も全くはずまず、無言の時間を埋めようという努力もお互いなく、それは馴れ合いから来るのだけれど、無言でもずっといられるような関係性ではなかった。ただ、一緒にいて楽しくもないし、楽でもないことが明白だった。

 今日もやっぱり待ち合わせの場所に現れることなく、一人レストランでメニューを広げていた。

口約束が多く、ちゃんと時間と場所を決めた約束もすぐにすっぽかされてしまう、一緒に食事をしていても自分が食べ終わったらすぐに帰ってしまう、取り残されたわたしの気持ちなんて、きっと考えたこともない、羅列すればするほど、なぜこんな人のことを好きでいたのかが分からなくなるが、最初はそうではなかった。思いやりと、わたしへの特別な眼差しを感じていた。それは、勘違いだったのではなくきっと、途中でどうでも良い存在にシフトしていったのだろう。

そのことを察知しながらも、好きでいようとしてしまったことはわたしの間違いだった。相手の感情はどうにもならない、思いやりがなくなった人を思いやり続けることほど、心身が磨耗することはない。

 だけどやっぱり、会うと全てチャラにしてしまう。今日、わたしの電話で目を覚まし待ち合わせに三十分遅刻して現れたあなたは、なんでもなかったみたいに、最近どうしてた?なんて話しかけてきたけれど、着ているTシャツが裏っ返えしだった。わたしは思わず笑ってしまう。大急ぎで駆けつけてくれたあなたを許してしまう。

十二

 痛くて痛くてたまらないけど使える手と、もう痛くない代わりに一切使うことができない手と、どっちがいいんやろ、とリウマチでねじ曲がった母の手を見て思う。使える、というのにはもう壊れすぎていて、棒きれみたいな母の手。薬が今飲まれへんから、痛がってるんやと。かわいそうだ。でもわたしにその痛みはわからない。

 昨年実家に帰って一番変わっていたのは、母が神様を祀らなくなってたことだ。

もう仏様にお線香もあげないし、私が高野山のお土産に買って帰った宝来も、いつもなら大喜びで床の間に飾るのに、見向きもせず、触りもしなかった。今まで調子悪ければ悪いほど神様仏様にすがってたのに、こんなんは初めてやった。

 母は、調子が悪ければ悪いほど神様にのめり込んだし、わたしは、調子が悪ければ悪いほど彼にすがった。でも母は神様を捨てたのかもしれない。そんなもの救ってくれないってとうとう気づいて諦めたのかもしれない。そんなもの、そもそもいなかったんだと思ったのかも知れない。

 母は、一番好きな人とは結婚できなかった。お父さん、婿養子しか取らないって反対して、相手の人が長男やったからあかんかった。子供もできたのに、諦めさせられたわ。妹は、妹は好きな人と結婚して、好きなように生きて、わたしは長女やからそうはいかんかった、だからわたしは、どんな相手でも絶対に反対しないって言って、実際兄が結婚したいと連れてきたお嫁さんに三歳の女の子が一緒についてきた時もすごく喜んだ。いっぺんに孫もできたって、すごく喜んだ。

 かずちゃん、一番好きな人とは一緒になられへん、そういうもんやねん。小さい頃から呪いのようにそう聞かされた。

 母の一番好きだったその人の話は小さい頃からさんざん聞いていた。生まれてくることのなかったその子に母は名前をつけていた。わたしと同じ「寿」の字の付く名前だった。水子供養をしているお寺の傍らの池には亀がたくさんいて、意味はわからなかったけれどそこに行くことが好きだった。池の水面は土壌の微生物に反射して虹色に輝いていた。

 兄は父の旧姓から一文字を取って付けられた名前だから、父の家系と母の家系、それぞれの大事なものを繋いでいる感じがする。わたしは半分水子さんの代わりなんじゃないかって思うこともあった。

時々大喧嘩をして、あんたなんかうまへんかったらよかったわって言われた時にそんなことを思うこともあったけど、その言葉は本気やなかったって知ってる。イラついて感情が抑えきれなくて思いもしないことを言ってしまう気持ち、今なら十分過ぎるほどにわかる。

 なんで父と結婚したんって聞いた時、母はたまたまやって言った。たまたま紹介してもらった人が三男の末っ子で、両親もいない人ですぐにでも婿養子に入れたからやって。でも、たまたまの賜物やったわ。調子がいい時はそんなことも言った。<了>